どうも、shoです。
本日8月9日、原爆投下から75年。
毎年この時期になるといつも考えることがあります。
それは「あのとき長崎ではなく福岡に原爆が落とされていたら、自分は被曝3世だったかもしれない」ということです。
今回の記事はこれについて書きたいと思います
当時予定した原爆投下地点は長崎ではなく福岡小倉
なぜ長崎ではなく福岡の小倉だったのか?
それは当時第二次世界大戦の中、日本の造兵廠は福岡の小倉にあったからです。
造兵廠(ぞうへいしょう、Arsenal/Armory)は、武器・弾薬などの設計・製造・修理などを行い、その蓄積のために使われる軍隊直属の兵器など精密工学の生産に用いる工場および機関のこと。
福岡の小倉は西日本の中で最大規模の造兵廠を設けていました。
米軍はこの小倉にある西日本最大規模の造兵廠を原爆の投下目標に選んだというわけです。
アメリカ側からすると敵国の武器施設を破壊するという作戦ですね。
そして福岡小倉は平地でもあり人口も13万人を抱えていたため、アメリカが考える原爆の「実験台」として条件が揃っていたため小倉を投下目標としました。
ちなみに京都、新潟も原爆投下目標に入っていた
その他にも原爆投下予定地はいくつかありました。
京都と新潟です。
しかし京都は文化遺産が数多くあったため、原爆投下目標から除外されたという話があります。
また新潟は小さくて遠いという理由で原爆投下を免れたという話もあります。
福岡小倉に原爆を落とそうとしたが
昭和20年8月9日、ファットマン(太った男)を乗せたB-29がテニアン島を離陸しました。
テニアン島はグアムの近くの島です。
「ファットマン」は原爆の名前です。
ちなみに広島に落とされた原爆の名前は「リトルボーイ」
B-29がテニアン島を離陸し日本の領空に侵入、小倉上空に至りました。
ところが小倉は雲に覆われており、B-29は投下地点に狙いを定められませんでした。
B-29は小倉上空を45分間旋回し続けましたが燃料がギリギリだったため、あきらめて長崎に向かいました。
長崎も雲に覆われていましたが、わずかな雲の切れ間を見つけて人類史上2発目の原爆を投下。
原爆は福岡には落とされませんでしたが、実際には自分の故郷の上を45分間ずっと核爆弾をぶら下げながら旋回し続けていました。
そう考えるだけでもかなり恐ろしいです。
もし小倉上空が晴れていたら
自分の祖父は福岡に住んでいます。
祖父は小倉からは少し離れたところに住んでいて、もし原爆が落とされていたとしても、爆風や熱線までは届かない距離に住んでいます。
しかし怖いのは、その後の放射線と黒い雨です。
もしあのとき小倉上空が晴れていたとしたら、間違いなく原爆は小倉に落とされていたでしょう。
そして爆風や熱線といった一次的な被害はなくとも祖父は2次的な被害、つまり放射能を大量に含んだ黒い雨に打たれていたかもしれません。
黒い雨に打たれるとどうなるか?
黒い雨はご存知でしょうか?
◆黒い雨(くろいあめ)とは、原子爆弾投下後に降る、原子爆弾炸裂時の泥やほこり、すすなどを含んだ重油のような粘り気のある大粒の雨で、放射性降下物(フォールアウト)の一種です。
この雨の中に大量の放射性物質が含まれており、打たれてしまうと次のような障害がでます。
- 頭髪の脱毛
- 歯ぐきからの大量の出血
- 血便
- 急性白血病による大量の吐血
また、健康な人が黒い雨に打たれると、突然死んでしまうという恐ろしいこともありました。
ぼくの祖父にこういった症状がもしあったとしたなら、考えるだけでもゾッとします。
目に見えない放射線を大量に浴びてしまうと、知らずのうち細胞やDNAを傷つけていきます。
そうして人々を苦しめながら死に追いやるというのが原爆の恐ろしいところです。
原爆を考える。自分は他人事とは思えない。
もしあの日、福岡に原爆が落とされていたら、世界はまた違う形で進んでいたかもしれません。
もし祖父が被爆して何かあったとしたら、母はもちろん自分も生まれていなかったかもしれない。
でも祖父が被曝したとして、今と同じ形で世界が進んでいたら、自分は被曝3世だったかもしれない。
平和とは何か?原爆とは何か?戦争とは何か?
毎年8月9日になるとそんなことを考えます。
Catch you later!